認知症高齢者ケア施設における身体感覚に着目した空間設計:「共振の家」の事例
1. 事例概要
本稿では、認知症対応型グループホーム「共振の家」を事例として取り上げます。本施設は東京都世田谷区に位置し、木造2階建て、延床面積約300㎡の規模で、9名の認知症を患う高齢者が共同生活を送るための居住空間として設計されました。この事例は、特に徘徊行動の緩和、平衡感覚の安定化、そして視覚、聴覚、触覚を通じた利用者の安心感と自己効力感の醸成に焦点を当てています。主要な対象者は、認知症の進行度に応じた多様なニーズを持つ高齢者です。
2. 設計の背景と目的
「共振の家」の設計は、従来の認知症ケア施設が抱える課題、すなわち利用者の行動制限、自由度の欠如、そしてそれに伴う生活の質の低下への深い問題意識から始まりました。プロジェクトの主要な目的は、認知症を持つ人々が尊厳を保ち、可能な限り自立した生活を送るための環境を構築することにありました。この目的達成のため、身体性や感覚に着目したアプローチが不可欠であると認識されました。
設計チームは、認知症によって引き起こされる空間認知能力の低下や、記憶障害、不安感といった特性を深く理解し、それらの症状を緩和し、心地よい行動を自然に促す空間を提供することを目指しました。特に、利用者の混乱やストレスを軽減し、生活リズムを安定させることで、より穏やかで充実した日常生活を実現することが重要な目標とされました。このようなアプローチは、医療・介護現場におけるQOL向上への要求の高まりと、建築が人間の心身に与える影響に関する学術的知見の蓄積という社会的・学術的文脈の中で推進されました。
3. 身体性・感覚への具体的なアプローチ
「共振の家」では、利用者の身体性と感覚に働きかける複数の具体的な設計手法が採用されています。
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動線計画と空間の連続性: 施設内の動線は、閉鎖的な廊下空間ではなく、自然な見通しを確保したループ状の構成となっています。これにより、利用者は施設内を自由に、かつ迷うことなく移動できる感覚を得られます。居室から共有リビング、そして庭へと視覚的、物理的な繋がりを持たせることで、利用者の好奇心や活動意欲を刺激し、目的を持った自然な移動を促しています。壁の配置や家具のレイアウトは、歩行の妨げにならないよう配慮され、徘徊行動がストレスなく「散歩」へと転換されることを意図しています。
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光環境デザイン: 自然光の恩恵を最大限に享受するため、南側に大きな開口部が設けられています。これにより、日中の太陽光が室内に深く差し込み、明るく開放的な雰囲気を提供します。また、人工照明は時間帯によって照度と色温度を自動調整するシステムが導入されています。朝は覚醒を促す高照度・高色温度の光、夜間はリラックスを促す低照度・低色温度の光に変化させることで、利用者の概日リズムの調整を支援し、夜間の不穏行動や睡眠障害の軽減を図っています。
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触覚と素材の選定: 床材には、足裏に心地よく、かつ滑りにくい無垢材やコルク材が使用されています。壁面には珪藻土や漆喰といった自然素材が採用され、調湿効果に加え、視覚的・触覚的な温かみと安心感を空間に与えています。手すりやドアノブの形状、素材も、握りやすさや触れた際の質感に配慮し、利用者が身体的に安心感を得られるよう工夫されています。家具は角が丸く加工され、転倒時の衝撃を緩和すると同時に、柔らかな印象を与えます。
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音響環境: 共用スペースと個室の間には、適切な吸音材や遮音構造が用いられ、生活音や外部騒音の伝播が抑制されています。これにより、利用者は落ち着いた環境で過ごすことができます。同時に、外部の自然音(鳥のさえずり、雨音など)が適度に感じられるよう配慮されており、自然とのつながりを感じさせることで精神的な安定を促しています。
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色彩計画: 空間全体は、利用者に穏やかさと安心感を与える暖色系の色彩を基調としています。ただし、トイレや非常口、特定の機能を示す場所には、認知機能が低下した利用者でも容易に識別できるよう、コントラストの強い色や視覚的に目立つデザインが意図的に用いられています。
4. 学術的理論との関連
「共振の家」の設計アプローチは、複数の学術的理論と深く関連づけられます。
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アフォーダンス理論: J.J.ギブソンによって提唱されたアフォーダンス理論は、環境が動物に提供する「行為の可能性」を指します。本施設におけるループ状の動線は、利用者に「歩く」という行為を自然にアフォードし、閉塞感なく散策を促します。また、庭への大きな開口部や視覚的なつながりは、「外部に出る」「自然と触れ合う」というアフォーダンスを提供し、自発的な行動を誘発します。
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環境心理学: 空間が人間の認知、感情、行動に与える影響を研究する環境心理学の知見は、設計の根底にあります。「場所の感覚(Sense of Place)」を重視し、利用者が見慣れた家具や装飾品を配置することで、居住者が自己の居場所を認識し、安定した精神状態を保つことを目指しています。また、見通しの良い空間設計は、「見当識(Orientation)」の維持に寄与し、迷いや不安の軽減に効果的です。
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ユニバーサルデザイン: 高齢者や障害を持つ人々を含む多様な利用者のニーズに対応するユニバーサルデザインの原則が広く適用されています。手すりの設置、段差の解消、色覚特性に配慮した色彩計画など、あらゆる人が安全かつ快適に空間を利用できる設計がなされています。
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神経建築学(Neuro-architecture): 近年注目される神経建築学は、脳科学の知見を建築設計に応用する分野です。本施設の光環境デザインは、概日リズムを司る視床下部の視交叉上核が光刺激によって調節されるメカニズムに基づいています。また、素材の触感や音響環境がストレスホルモンの分泌や脳波に与える影響に関する神経科学的知見も、設計判断の根拠となっています。
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エビデンスベースドデザイン(EBD): 認知症ケアに関する先行研究や行動観察データに基づき、設計上の意思決定が行われています。例えば、認知症高齢者の徘徊行動に関する研究、光環境が睡眠や気分に与える影響に関する医学的知見などが、具体的な設計手法に反映されています。
5. 評価・効果
「共振の家」の設計意図は、多角的な評価によってその効果が確認されています。
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定量的評価:
- 行動観察データ: 入居後の数ヶ月間の行動観察により、利用者の徘徊行動が従来の施設と比較して有意に減少したことが報告されています。特に、無目的で不安を伴う徘徊が減少し、目的を持った散策や活動への移行が観察されました。
- 薬剤使用データ: 睡眠導入剤や抗精神病薬の使用量が減少したという医療記録も報告されており、穏やかな生活環境が精神的な安定に寄与している可能性が示唆されています。
- 活動量計データ: 利用者の日中の活動量が増加し、夜間の睡眠時間が安定するなど、全体的な概日リズムの改善が確認されています。
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定性的評価:
- 介護スタッフからのフィードバック: 介護スタッフからは、利用者の表情が穏やかになり、以前よりも笑顔が増えた、不安による叫び声や攻撃的行動が減少したという声が多数寄せられています。また、空間の見通しが良いことで、利用者の状況把握が容易になり、介護負担の軽減にも繋がったという評価もあります。
- 利用者家族からのフィードバック: 面会に訪れる家族からは、自宅で過ごしていた頃よりも落ち着いて生活している、あるいは表情が豊かになったといった肯定的な意見が多く聞かれています。
- 居住者の声: 言葉での表現が困難な利用者も多いですが、身振りや表情から、この場所が安心できる快適な環境として認識されていることがうかがえます。
課題: 初期段階においては、自然素材を多用したことによる清掃やメンテナンスの手間が懸念されました。しかし、長期的な視点での居住環境の質や、利用者のQOL向上効果を考慮すると、その手間は許容範囲内であると結論付けられています。
6. まとめと示唆
「共振の家」の事例は、認知症高齢者ケア施設において、身体感覚と行動に深く配慮した空間設計が、利用者のQOL向上とケアの質改善に極めて大きく貢献することを示しています。自然な動線計画、生理的リズムに配慮した光環境、安心感を醸成する触覚的な素材、そして穏やかな音響環境といった多角的なアプローチが統合されることで、利用者の自立性と尊厳を支える居住環境が実現されています。
この事例から得られる重要な知見は、建築が単なる機能的な箱ではなく、人間の生理的、心理的側面に対し、能動的に働きかける媒体であるという点です。今後の建築設計においては、特に高齢者施設や医療施設において、利用者の特定の身体的・認知的特性を深く理解し、それに基づいたパーソナライズされた空間デザインの可能性が探求されるべきです。
また、IoT技術やセンシング技術の進化を活用し、利用者の行動パターンや生理的状態を継続的にモニタリングし、空間環境をリアルタイムで最適化するような研究の可能性も示唆されます。建築学、環境デザイン、医学、心理学、神経科学といった異分野間の連携をさらに深めることで、人間のウェルビーイングを最大化する建築空間の実現に向けた、新たな知見が生まれることが期待されます。