動的平衡感覚と多感覚刺激に着目した子供の遊び場設計:発達支援施設における「メビウスの森」の事例
事例概要
本稿では、東京都郊外に位置する私立発達支援施設「未来の芽学園」内に設置された屋内遊び場「メビウスの森」の設計事例を紹介いたします。「メビウスの森」は、延床面積約200平方メートルの比較的小規模な施設ながら、幼児から学童期の子供たち、特に感覚統合に課題を持つ子供たちの身体性発達を支援することを主目的として設計されました。この事例は、動的平衡感覚、固有受容覚、触覚、視覚といった複数の身体感覚に複合的に働きかける空間構成を特徴としています。
設計の背景と目的
「メビウスの森」の設計は、現代社会において子供たちが経験する身体活動の機会減少と、それによる感覚統合障害や運動能力発達の遅れといった課題意識を背景に始まりました。均一化された遊び場では、多様な身体感覚を刺激し、複雑な運動パターンを自発的に生成する機会が限定されがちです。これに対し、設計者は、子供たちが自身の身体と環境との相互作用を通じて、能動的に感覚情報を取り入れ、運動を組織化できるような環境の創造を目指しました。
具体的な目的としては、以下の点が挙げられます。 1. 動的平衡感覚の向上: 予測不可能な身体の揺れや傾きに対応する能力を育む。 2. 固有受容覚の促進: 関節や筋肉からの感覚情報に基づき、身体の姿勢や動きを正確に把握する能力を高める。 3. 多感覚統合の支援: 視覚、聴覚、触覚といった外部感覚と前庭覚、固有受容覚といった内部感覚の連携を強化する。 4. 探索行動と自発的活動の誘発: 子供たちが好奇心に基づき、遊び方を自ら発見し、創造する環境を提供する。
これらの目的は、特に発達障害を持つ子供たちの感覚処理能力や運動計画能力の向上に寄与すると期待されました。
身体性・感覚への具体的なアプローチ
「メビウスの森」は、子供たちの身体感覚に働きかけるため、以下のような多角的な設計アプローチを採用しています。
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高低差と傾斜を多用した床面:
- 内部空間は、複数のレベルに分かれた床面が緩やかな傾斜や不規則な段差で連続する構成となっています。これにより、子供たちは常に変化する地面に対応しながら移動する必要があり、無意識のうちに姿勢制御やバランス保持の練習が促されます。一部には、緩やかに揺れる吊り橋や、足元が柔らかく沈む素材を用いたエリアも設けられており、前庭覚と固有受容覚への刺激を強化しています。
- 設計者の意図としては、平坦な空間では得られない、多様な身体重心の移動と筋活動を誘発し、予測不可能な環境への適応能力を高めることにありました。
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異なる質感と温度を持つ素材の組み合わせ:
- 床材は、滑らかな木材、凹凸のあるゴムマット、冷たい金属、柔らかいカーペット、さらには内部に砂や小石を封入した透明な床など、多様な質感が意図的に配置されています。これにより、子供たちは裸足で歩くことで、足裏からの触覚情報を豊富に得ることができます。壁面にも、ツルツルしたアクリル板、ザラザラした左官仕上げ、布製のタペストリーなど、多様なテクスチャーが取り入れられ、手で触れることによる触覚探索を促しています。
- これは、触覚系の感覚受容器を刺激し、脳への多様な情報入力を行うことで、触覚弁別能力や触覚防御反応の緩和を目指すアプローチです。
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光と影による空間演出:
- 天井に設けられた天窓や、壁面の異なる高さに配置された窓からは、自然光が多様な角度から差し込み、時間帯によって空間の明るさや影の形が変化します。また、内部には色温度や照度を調整可能なLED照明が設置されており、遊びの内容や子供たちの状態に応じて、空間の雰囲気を動的に変化させることができます。
- 光の変化は視覚システムを刺激し、空間認識能力や集中力に影響を与えます。影の形成は、空間の奥行きや形状を認識する手助けとなり、探索行動を促進します。
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音響環境の計画:
- 空間全体には、部分的に吸音材と反響材が組み合わされています。これにより、特定のエリアでは音が吸収され静かな集中できる環境を提供し、別のエリアでは声や足音が程よく響くことで、空間の広がりや他者の存在を感じさせる効果を狙っています。また、環境音として、水の流れる音や鳥のさえずりを微かに流すことで、心地よい背景音を提供しています。
- 聴覚刺激は、空間の広がりや安全性を認識する上で重要であり、適切な音環境は精神的な落ち着きや集中力に寄与します。
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動線計画と隠れ家空間:
- この遊び場には、明確に定められた「正しい」動線が存在しません。複数の入口と出口、トンネル、クライミングウォール、滑り台などが複雑に絡み合い、子供たちは自由に経路を選択し、自分だけの遊び方を発見することができます。また、身体がすっぽり収まるような小さな隠れ家空間や、高い場所から全体を見渡せる見晴らし台なども設けられています。
- これは、アフォーダンス理論に基づき、環境が子供たちに多様な「行為の可能性」を提供することを目指したものです。隠れ家は安全基地を提供し、自己調整の機会を与えます。
学術的理論との関連
「メビウスの森」の設計アプローチは、複数の学術的理論と深く関連しています。
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アフォーダンス理論(J.J.ギブソン):
- ギブソンが提唱したアフォーダンスの概念は、環境が生物に提供する行為の可能性を指します。本事例では、床の高低差は「登る」「降りる」「転がる」といった行為を、異なる質感は「触れる」「探索する」といった行為を、トンネルは「潜る」「隠れる」といった行為を誘発する「アフォーダンス」として意図的に配置されています。これにより、子供たちは環境が提供する可能性を自ら発見し、能動的に身体を動かすことが促されます。
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感覚統合理論(A.J.アーユル):
- アーユルは、脳が身体の内外からの感覚情報を効率的に組織化し、行動に繋げるプロセスを「感覚統合」と定義しました。この遊び場は、視覚、聴覚、触覚、前庭覚(平衡感覚)、固有受容覚(身体の位置・動きの感覚)といった多感覚情報を豊かに提供し、それらを統合的に処理する機会を子供たちに与えます。特に、揺れる足場や複雑な床面は前庭覚と固有受容覚を強力に刺激し、これらの感覚システムの調整能力を高めることに寄与すると考えられます。
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環境心理学:
- 空間が人間の行動、感情、認知に与える影響を研究する環境心理学の知見も、設計に活かされています。複雑で探索的な空間は子供の好奇心を刺激し、自主的な学習と遊びを促します。また、隠れ家のようなプライベート空間の存在は、安心感を提供し、過度な刺激からの避難場所としての機能も果たします。
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神経建築学:
- 近年注目される神経建築学の観点からは、この多感覚的な刺激が脳の発達、特に感覚野や運動野の発達に与える影響が示唆されます。多様な感覚入力は神経回路の形成を促進し、脳の可塑性を高めることで、子供の認知機能や運動能力の向上に寄与する可能性があります。
評価・効果
「メビウスの森」の運用開始から1年間、施設利用者(子供たち)と保護者、教育者を対象とした定性的・定量的な評価が行われました。
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定量的評価:
- 行動観察によるデータ分析では、メビウスの森を利用した子供たちは、通常の遊び場と比較して、平均して20%以上、より多様な身体活動パターン(例:登る、這う、バランスを取る、飛び降りるなど)を示しました。特に、動的平衡感覚が試されるエリア(揺れる足場、傾斜面)での滞在時間が長く、集中的な活動が見られました。
- 保護者アンケート(N=100)では、約85%が「子供の運動能力が向上したと感じる」、約70%が「以前よりも活発に身体を動かすようになった」と回答しました。また、感覚統合に課題を持つ子供の保護者からは、「特定の感覚過敏が軽減されたように見える」といったポジティブなフィードバックが約半数から得られました。
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定性的評価:
- 教育者へのインタビューからは、「子供たちが自ら遊び方を発見し、創造する姿が多く見られるようになった」「協調性が向上し、互いに助け合いながら複雑な遊びに挑戦するようになった」といった声が聞かれました。特に、多様な身体活動を経験することで、自己肯定感が高まる効果も示唆されています。
- 一方で、設計の意図した効果が全て均一に現れるわけではないこと、また、一部の子供にとっては刺激が過剰に感じられる場合があるという課題も指摘されました。これに対し、施設側は、休憩スペースの充実や、個別の支援プログラムとの連携を強化するなどの対策を講じています。
まとめと示唆
「メビウスの森」の事例は、身体応答デザインが子供たちの発達支援において極めて有効なアプローチであることを示唆しています。多感覚刺激と動的空間を統合的に設計することで、子供たちは自発的に多様な身体活動に従事し、動的平衡感覚や固有受容覚、ひいては感覚統合能力の向上を促されることが明らかになりました。
この事例から得られる重要な知見は、建築設計が単なる機能的要件の充足に留まらず、利用者の身体性や感覚システムに深く働きかけることで、発達や学習といったより高次の目標達成に貢献し得るという点です。今後の建築設計、研究、教育においては、以下の点が重要であると考えられます。
- 利用者の身体・感覚特性の深い理解: 対象となる利用者の発達段階、感覚特性、行動パターンを深く理解し、それに基づいたパーソナライズされた空間設計の重要性。
- 多角的理論の統合: アフォーダンス理論、感覚統合理論、環境心理学、神経建築学など、複数の学術分野の知見を統合し、より根拠に基づいた設計アプローチを構築すること。
- 継続的な評価とフィードバック: 設計された空間が実際に利用者にどのような影響を与えているかを、定量・定性両面から継続的に評価し、その結果を設計プロセスにフィードバックするサイクルを確立すること。
未解決の課題としては、このような特殊な機能を持つ施設の建設・維持管理コストと、その効果の長期的な追跡調査、さらには異なる文化的背景や気候条件における設計アプローチの普遍性の検証が挙げられます。これらの課題は、今後の建築学および関連分野の研究において、更なる探求の余地がある領域であると言えるでしょう。